第二十一話 「男所帯の社宅」
アラキはマンションの鍵を開け、ワタシを招き入れた。
「さあ、どうぞ」
ワタシは、そそくさと部屋の中に入った。
この部屋が、彼らが占有している部屋か。
彼らが占有し、そして、ウチの会社が落札したマンション――。
複雑な思いを感じる。
「まあ、散らかってるかも知れないけど、その辺りはご勘弁願いたい」
ワタシは、大した返事もせず、靴を脱いで入った。
玄関から入ると、埃っぽい廊下を越えて、
リビングを兼ねたダイニングキッチンに入る。
空気が淀んでいるダイニングには、
ソファーセットやテレビ、冷蔵庫、食器棚がギュウギュウに置かれ、
それ以上に確かに彼の云っていることは、
間違っていなかったと痛感せざるを得ないと。
部屋の中には雑誌やカップラーメンの器が散乱していた。
壁には、エロ本や成年誌から切り取ったのだろう、
AV女優やグラビアアイドルのピンナップが所狭しと貼られていた。
ゴミ屋敷と表現する位の酷さではないが、
それでも十分に散らかり過ぎている程、散らかっていた。
生活感があり過ぎだ。
ワタシがダイニングをぐるりと見ていると、
アラキは「中は、こんな感じで――」と云った。
と思うと、いきなり大声を出す。
「おい、オマエら、客人が来てるぞ!!」
いきなり声を張り上げられたので、ワタシは驚いたのだが、
そんなワタシを尻目に、彼はもう一度叫んだ。
「おい、聞こえねぇのか!?」
するとその声に呼応するかの如く、ガラガラと音を立て、
リビングと隣の部屋を隔てている引き戸が開いた。
そして、気だるそうに「ちゃぁーす」とひとり、
Tシャツとジャージをだらしなく着崩た茶髪の若い男が出てきた。
何だ、こいつは――。
ワタシは、訝しげな顔になっていたことだろう。
しかし、それはまだ序章であり、更に顔は険しくなっていくことになる。
何故なら――。
その部屋から現れたのは、その茶髪の男だけではなかったのだ。
またひとり、またひとりと、男が出て来た。
その数あわせて、五人。
顔かたちはそれぞれ違う彼らであったが、彼ら全員に共通しているのは、
茶髪であることと、皆一様に「ちゃぁーす」なる返事をすることである。
アラキは後ろにそれぞれがダルそうにしている、
五人の茶髪「ちゃぁーす」軍団を従え、ワタシに云った。
「ここは男所帯の、非常にむさ苦しいところでして、ね。
いつも、この位の人数が、ここにいるんだよな」
一気に体感温度が上がったこの部屋で、顔が固まったワタシである。
少々気圧されながらもアラキに尋ねた。
「ここで、この人たちが、共同生活をしている、と?」
興味もなさそうに、それ以前にもう昼過ぎだと云うのに、
とても眠そうな表情をしている男どもを振り返りながら、彼は答えに応じた。
「そうです。こいつらは、ここに住んでいる――。
云うなれば、ここは、ウチの会社の社宅と云うわけですな。
そうだよな、オマエら!?」
五人の男どもは一斉に答えた。
「ちゃぁーす!」
アラキは満足そうに頷く。
それとは対象に、ワタシは頭が痛くなった。
ここは”社宅”なのか?
第二十二話 「NEC」
こんなところで突っ立っているのは何だから、
と脇に備え付けられていたソファに腰掛けるよう、ワタシに促した。
アラキはテーブルを挟んで前の椅子に座る。
ソファは大分くたびれていた。
座っている部分に、ごつごつとしたスプリングのでっぱりを感じた。
あと数年もすれば、ソファの上皮をスプリングが突き抜け、
飛び出してしまうだろう。
「ご覧の通り、ここはこうやって、実態として社宅になっているんですよ」
アラキは先制パンチを掛けるかの如く、ワタシに云った。
「むさ苦しい男所帯ですけどね」
五人の男どもは依然として、椅子に座るアラキの後ろに控えている。
対面するワタシはと云えば、たったひとりである。
圧倒的に人数差ではあちらが上回っている。
しかも、よくよく顔の造作を視てみれば、
軍団の皆が皆、茶髪の下に、悪そうな顔を付けているではないか。
アラキはワタシが思ったことを先読みしたか、付け加える。
「この子たちは、ウチがやってる店で、よく働いているんですけどね」
「お店、ですか?」
「そう、まあ、川崎の飲み屋なんだけどね。
朝方までやってる店だから、今は本来だったら就眠中って訳なんだけど。
でも、お客が来てるってのに、寝ている訳にはいかないでしょう?」
ワタシは、「いえ、お気遣いなく」と云ったのだが、五人の茶髪男どもは、
アラキの云ったことに前面服従とばかりに
「ちゃぁーす」とだけ云って、立ち続けていた。
そのような対応を取ると云うことは、彼らにとってアラキは、
それだけ雲の上の存在―― 天上人だと云うことだろう。
「あのう、 付かぬ事を訊きますが。
アラキさんの顧問ってのは、一体、どう云ったポジションなんでしょうかね?」
「ああ、これは、顧問ってのは――。
要するに、オーナーってことだな」
「オーナー?」
「そう、会社を作った創業者ってこと。
株式だから、全部の株を持ってるってことだな。
会社なんてものは、NECだけじゃなくて、幾つも持ってるんだけどね」
「エヌ・イー・シー?」
何だ、いきなりNECって。
あれか、パソコンとか作ってる大手メーカーの会社はオレのものだ発言か?
なんだよ、その前触れも無い、トンでも発言は。
だが、彼はくすりともせず、云った。
「NEC――日本(N)エクセレント(E)カンパニー(C)の略だよ」
「ああ、そっちの方のNECですね」
……。
紛らわしい略称だ。
気を取り直して、と。
今、せっかく相手側の会社の話になっている。
その知識が無駄かそれとも役に立つのかは分からないが、
相手側の情報を得るのは、こちらにとっての有用な武器になるかも知れない。
この際だから、色々と訊いておこう。
「それで――。
そもそも、NECさんって、何をやられている会社なんですか?」
「いや、だから、それこそ、多種多様ってヤツだな。
飲食や物販、輸入業、人材派遣、不動産、金融……」
「後は、競売物件の占有業ですか?」
ワタシは勢いに任せて、皮肉を云ってみる。
さあ、どうでる?
アラキは黙ってワタシの方を見ていたのだが、
彼は風船が割れるみたいな笑い声を上げた。
笑いながら、彼は云った。
「それは時と場合によって、だな。
まあ……」
アラキはテーブルに置いてあった、
ガラスの大きな灰皿を自分の手元まで引いていき、
紫スーツの内ポケットから、タバコを取り出した。
ショートピースだった。
彼がタバコを口にすると、手下のひとりが、
これまたテーブルに置いてあったごついジェットライターで火を点ける。
彼は一服すると、タバコの煙を意図的か無意識かは分からないが、
ワタシの方に向け、吐き出した。
「ひとつ云えることは、ここは現に――。
社宅として占有している、と云うことだな」
先程から彼は”社宅”と云う言葉を繰り返している。
それには理由があるのだ。
その理由とは……。
第二十三話 「二枚の賃貸契約書」
「要するに、ここはただ単にモノをひとつ置いて占有している訳ではなく、
実際にアラキさんところの会社が社宅として、
従業員を住まわせているってことですね」
「そう、その通り」
「このマンションの今現在の所有名義は、ハイバラさんですよね?
賃貸借契約書とかあります?」
アラキはジェットライターで火を点けた男の隣に立っている茶髪に命じた。
「ちょっと、ここの契約書持って来い!」
男は、「ちゃぁーす!」と云いつつ、リビングの食器棚の下の棚から、
一通の封筒を取り出し、アラキに渡した。
アラキは「これだな」と云って、
タバコをくわえながら、ワタシの方に寄越した。
封筒の中には、ぺらぺらの紙が入っており、
それは賃貸借契約書であった。
契約書によると目的となる賃貸物件は、
ワタシが居るこの部屋となっており、
期間は二年間、家賃は十五万円に設定されていた。
数字上だけで見れば、賃貸料金として近隣相場を外してはいない。
しかし――。
「ただ、貸主がハイバラさんじゃなくて……。
ウジハラさんになっていますね」
ウジハラ……。
未だに謎の人物である。
管理人のオバサン曰く「大男のヤクザ」だ。
彼の名前はここで出て来た。
その彼が貸主として出ている。
借主は日本エクセレントカンパニーだ。
契約書の仲介業者の欄は空白になっていた。
アラキはワタシの指摘にも、涼しい顔であった。
二本目のタバコを心行くまで吸い、疑問に答えた。
「その封筒ん中、もう一度よく見てごらん」
ワタシは彼の云う通り、契約書の入っていた封筒を再度広げてみた。
すると封筒の内側にへばりつくかのようにもう一枚の紙が入っていた。
取り出して広げる。
賃貸の契約書であったが、こちらはコピーであった。
それにウジハラと日本エクセレントカンパニーとの契約ではなく、
ウジハラとハイバラとの賃貸借契約だ。
「これは、借主がウジハラさんで、貸主がハイバラさんの……」
「そう、賃貸借契約書。
それで、ここ見て」
彼は広げた賃貸借契約書の写しの一部を指差す。
そこに示されているのは、当該物件の転貸を可能とする条項であった。
「これで分かったでしょ。
こちらは、ウジハラから、ちゃんと転貸してもらってるの。
正式に賃貸借契約書を交わして、真っ当に。
だから、ここに住んでいるっていう、
それだけの価値があるってことは分かったでしょう?」
アラキはダミ声で捲くし立てた。
後ろに控えている五人の茶髪軍団は、
「ういうい」とばかりに天上人の声に頷いていた。
ワタシは黙って聞いていたのであるが、
でも、彼の云っていることは一見、理が通っているようで、
その実、通ってはいない。
「とりあえず、転貸借による占有を主張される訳、ですね」
ワタシはメモ帳にその旨を記した。
アラキは同意の頷きをする。
「それはさておき、大体、ウジハラさんってのは、
何者なんでしょうかね?」
アラキは、得意げに喋る傾向を見せている。
情報を収集したいワタシからしてみれば、
今の彼は都合がいいところだ。
「ウジハラは……アイツは、切り取り屋だな。
行き詰った人間に金を貸した金融屋から、債権を買い取って、
切り取りを掛ける。
でも、アイツは切り取れなかった。
で、結局、他に大きいヤマが出来たって云うから、
こっちが買い取ってやったってことろだな」
「切り取り屋のウジハラさんから、債権を買って。
その代金として、毎月の家賃にしている、ってところです?」
わざと素人っぽい風を装ってみた。
アラキはワタシの訊き方に、どことなくバカにした顔を浮かべ、云った。
「違う、違う。
毎月払うなんて、そんな面倒なことする訳ないだろ。
アイツには、ちょっとした金を掴ませただけだよ。
大体、債権の買取りなんて、もともと大した金額なんて払わないんだよ。
せいぜい、額面の数パーセント。
いや、そんなには出さないか。
それは、サービサーだろうが弁護士だろうがヤクザだろうが、皆、一緒だ」
食いついてきた。
本当にべらべらと喋る男だ。
ワタシがアラキと電話で話した時、当初感じた重みなど、
どこへ行ったのやら。
これでは猪突猛進して来たドイガキと何ら変わりない。
こんな商売などしている人間など、この程度の人間なのだ。
それに、彼が喋りまくっているのは、
自分に対する相手がたったひとりのワタシであり、
対して、自分らが合計六人もいると云う安心感も加わっているのだろう。
もっとも、ワタシにとってみたら、それは望むべきことだ。
「へえ……。
じゃあ、アラキさんはその債権を幾らで買い取ったんですか?」
「それは……」
と云い掛けたが、だが――。
一転「まあ、それはいいじゃねえか」とだんまりを決め込まれた。
ちっ――。
流石にそこまではゲロしないか。
アラキの顔には、微かに苛立ちの様が浮かび上がっていた。
ちょっと話し過ぎたことを後悔しているようでもある。
……と、その時だった。
第二十四話 「王様と家来」
本当にいきなりであり、あんまりなことであったが――。
アラキはいきなり立ち上がると後ろを振り返った。
そして、唐突なことであったが、立ち尽くしている五人の茶髪男の内の、
まだ仕事を命じていない男のひとりの頬を思いっきりぶん殴った。
殴られた男は、倒れ込む。
多分、彼は何故自分が殴られ、床に倒れているのか、
分からなかったのではないだろうか。
それ位あっと云う間の出来事であった。
それを間近で目撃したワタシにしても、何事か、と思った程である。
アラキはダミ声を張り上げる。
「やいやいやい、オマエら、五人も雁首揃えておきながら、
オレも客人も来てるってのにも関わらず、
何も出さねえってのは、一体、どう云う了見なんだ!?
それに、揃いも揃って、眠そうな顔しやがって!!」
アラキは喚き散らしていた。
殴られ床に倒れた被害者は、這いずりながら、冷蔵庫の方へと向かう。
ワタシは「いえ、お茶とかそう云うのはいいですよ。結構ですよ」
と云ってみたが、でも、アラキの怒りは収まることなく――。
残りの四人を片っ端からぶん殴って行った。
殴られた皆が皆、床にへたり込んでいた。
「何だ、その様は!
客人がいる前で、オマエら眠そうなだけじゃなくて、
本当に寝ててどうするんだ!?」
激しい怒りが止まる事のない彼を見て、
ワタシも驚きとちょっとした怖さを感じる。
今までそんな兆候を片時だって見せてはいなかったではないか。
それに、そんな暴力的な所作を働く外見ではなかったので、
意外と云えば意外であった。
ワタシは「まあまあ、そこら辺で。
ワタシは何とも思ってませんので」と荒ぶる彼に声を掛けた。
アラキは「客人がそう云うのなら……」ととりあえず、
冷えた缶コーヒーをふたつ持って来た男も含めて、
五人を隣の部屋に帰れと示唆した。
茶髪軍団は、頬を押さえよろよろとしながらも震える声で
「ちゃぁーす」と云いながら、隣へと消えて行ったのであった。
アラキはタバコを口にしながら、缶コーヒーを勧める。
ワタシは勧められるままに、空けた。
一口ずつ飲みながら、冷静になって考えてみる。
暴力に訴える一連の彼の行為は、
あまりにも唐突であり、不可解過ぎる行動だ。
でも、その結果として、交渉相手であるワタシは驚き、
あたふたと混乱し掛けた。
もう一口飲む。
それこそ、彼の望むことであり、狙いだったのではないだろうか。
そうだと確信する。
これは……。
アラキなりの作戦だったのだ。
自分の強大さを見せつけ、
ついでにワタシから冷静さを失わせ動揺を誘う作戦――。
一言で云えば”王様と家来”作戦ではないか。
家来は王様に対して絶対服従であり、殴られようが暴言を吐かれようが、
常に王様の意向に沿わなければならない。
もちろん、このケースにおいて、
王様はアラキで、家来は茶髪五人衆である。
そして、そんな光景を交渉相手に見せつけ、
自分の強さを存分にアピールする。
また交渉相手に、暴力による恐怖心も煽る、
まさに一石二鳥とも云える作戦だ。
再度、一口。
驚きや戸惑いは、段々と落ち着いてくる。
だが、ここでひとつ、思い浮かんだ疑問があった。
それは、彼の暴力はワタシに向かってくるか? と云うことだ。
しかし、ワタシはその思いをすぐ否定した。
この男には、ある程度の分別があるはずだ。
無軌道な若者のように、自分の欲望の赴くままに、
暴力を剥き出しにするタイプではなかろう。
ワタシがそう確信したのには、理由がある。
彼には目標があって、それに向かって突き進んでいるだけだからだ。
もちろん、その目標とは、たったひとつ。
金である。
彼は金になりそうだから、落札者であるワタシと会っているのだ。
ここでワタシを殴ってしまっては元も子もあるまい。
ここでコーヒーばかり飲んでいても仕方ない。
ワタシは、缶を置いて、咳払いをした。
休憩のインターバルを置き、第二ラウンドが始まった。
再び、ゴングが鳴る。まず仕掛けてきたのは、アラキの方からだった。
第二十五話「要求」
アラキは云った。
「まあ、さっきも云った通り、こちらにはちゃんとした賃貸借契約書があって、
五人ばかりここに住んでいる。
これは形ばかりの占有って訳ではなく、
実際に本当に住んでいると云う話で……」
ワタシは黙って聞いていた。
ただ、オマエの作戦はこちらには聞かないぞ、と思ってはいたが。
そんなことも露知らず、アラキはひとりで喋っている。
おおよそ、相手が自分に恐怖心を感じているだろうと想定しながら……。
「だから、本来だったら、ここに住まわせて貰いたい訳。
そのままの賃貸借契約で。
あ、そのままって云っても、今の賃料 はちょっと高過ぎだから、そうだなあ。
うーん。
五万円ってところが相場じゃあないかね?」
ワタシは呆気に取られた。
家賃を支払うから、そのまま賃貸契約 を結んでくれ、
と云った条件を提示してくる占有者は結構な数がいたりするが、
ここまで大幅なディスカウントを要求してくる人間 はいなかった。
大体、五万円なんて、近隣家賃相場の半値以下である。
ただ、そこでころころ表情を変えてしまっては、
その表情の変化と同じ位、
ワタシの人間としての器の重みまでも軽く見られてし まうことになるだろう。
出来うる限り、表情を外に出すことなくワタシは云った。
「簡潔に云います。
その今の申し出に対しては、ウチはノーとしか云いようがありません。
このまま、所有権がウチに移った後においても、
この部屋を賃貸しようとは毛頭思っておりません。
また、仮に賃貸を良しとする場合においても、その金額だったら、
到底イエスとは云えませんよ」
当たり前の話である。
こちらは、競売物件を転売しての利潤獲得することが目的なのだから。
ここで不当に廉価で部屋を貸して、更に第三者に転貸されても、
ウチの会社がバカを見るだけだ。
五万で貸したものが十万で転貸されたら、
それだけで相手側が五万円も得をする勘定となる。
ただ、ワタシの断固たる否定に対し、向こう側も露骨なまでに嫌な顔をしなかった。
それはそうだろう。
この発言もまた、アラキの作戦のひとつなのだから。
交渉のテーブルに着いたら、まず最初はあくまでも常識の範囲内で、
相手方が飲むことの出来ない条件要求を行い、交渉が進むにつれ、
次第に相手側が飲めるであろう範囲の、最上の部分にある 条件で合意を成す。
はじめにハードルを高くしておけば、
最終的に落ち着くところも相対的に高い部分で落ち着く。
だけれども、当初からハードルが低ければ、
それに伴い、決着点も低くなる。
条件が悪くなる。
これが交渉を行う上での鉄則であり、最低限知っておくべき基本中の基本である。
だから、アラキは、こちらが飲むことが出来ない条件を提示しているのだ。
最終的に、自分にとってより都合の良い結末を引き出すために……。
ワタシは目前にしている交渉相手の次なる手が読めていた。
彼は、今の発言よりちょっとだけ譲歩をする。
果たして――。
「じゃあ、貸せないってことだけど。
五万円じゃなくて、今まで 通り、家賃十五万円で貸して貰うってのはどう?
これだったら、なかなか悪い条件じゃないと思うよ」
ワタシに思った通りだった。
彼は、五万円の部分を契約書通り、金十五万円也に金額をアップさせた。
彼なりの譲歩の姿勢をアピールしているのだろう。
このテクニックの良い点は、もうひとつあって、最初に無茶苦茶な――
と云っても最低限常識の範囲内で――
条件を提示しておけば、それだけ譲歩の幅が広がるところである。
ハードルを少しずつ下げて行くことで、こちらが条件を低くしているのに、
そちらは全く歩み寄ろうとしない。
交渉を進める気があるのか、無いのか、
と相手側に最終通牒を突き付けることも出来る立場になり得る。
要するに、交渉の主導権を握ることもまた可能になるのだ。
もっとも最初からハードルを高く設定しているのだから、
それを下げたところで、まだまだ壁は高いし、実際のところ、
そんな偉そうなことを主張する立場にはないのである。
だが、人間の心理とは微妙なもので、
相手がこちらにちょっとずつ近寄っていると、
自分もまた相手側と同じ歩幅で近寄らなければならない気分に陥ってくる。
心理作戦である。
それでは、このテクニックを弄する相手の打破には、どのようにすればいいのか。
答えは簡単である。
こちらも相手側に同じことをすればいいのだ。
相手にとって無茶な――
ただ、ウチに取っては全然無茶でも何でもないが――
要求を行えばいいのだ。
ワタシは……。
第二十六話「短期賃借権」
アラキの場合、当初、ここは社宅だとアピールして、
通常の賃貸借契約だと主張した。
ついで、こちらが賃貸する気など微塵もないことを認識した上で、
賃貸契約の存続を要求した。
だが、彼にとってここまでは前座なのである。
ここから本題――要するに、ここには実際に社員が住んでいるので、
引っ越しするのに金が掛かる、次行くところも探さなければならないし、
転居先を借りたら借りたで、金は掛かる。
何から何まで金が掛かるので、その辺り、何とか工面してくださいよ、
ヒガシタニさん――と云うのが、彼が描いていたシナリオだろう。
占有者は様々な要求をしてくることが多々ある。
中には、ワタシは人間として甘いのかも知れないが、
ささやかな程度の要求であればそれを叶えてあげてもいいと思える程、
不幸で不遇な環境に身をやつしている人も居るが、
しかし、アラキだか日本エクセレントカンパニーだか知らないが、
彼のようにここまであからさまに金を要求してくる債権回収屋には、
びた一文支払う気にはなれない。
当然のことだ。
だから、ワタシは――首を横に振り、答えた。
「賃貸とかそう云うことを云っている場合ではないですよ。
ワタシどもがアラキさん――と云うよりも、
日本エクセレントカンパニーさんに云いたいことはただひとつ。
ホント、ただひとつだけなんですよ」
「たったひとつって、何?」
「賃貸とか金額どうこうでなくて、そちらの条件がどうこうでもなくて、
たったひとつ、ワタシが聞きたいのは、一体、いつになったら、
このマンションから退去して頂けるのですか?
それだけですよ」
アラキはいきなり不満げな顔になった。
仮に彼の申し出を否定するのであっても、
低姿勢のまま”十五万円ではなく、
もうちょっと譲歩をして頂けませんかね”的に話を受けていれば、
こんな不平不満の固まりのような表情をすることなどなかっただろう。
それが、彼の思い描いていた、究極的に金を手にするシナリオ通りなのだから。
しかし、ワタシは彼のハードルを無視し、両手でなぎ倒した。
彼にとって、面白くないのは当然である。
「……何もなく、出て行けって云うのか?」
アラキは自分なりの作戦を弄して、ワタシから、
強いてはウチの会社から、立ち退き料名目の金を取ろうとしている。
やり方は若干違えども、この前のドイガキと同じ発想なのだ。
もっとも、ドイガキは日本エクセレントカンパニーの社員なのだから、
上司であろうアラキの命に従っただけなのだろうが。
ワタシはと云えば、確定的に立ち退き料を支払わないと決意していた。
「出て行け、とは云ってませんよ。
このマンションが名実共にワタシどもの所有になる前までにはご退去して頂ければ……」
「だから、それが何にもなく出て行けってことだろ!?」
彼のダミ声が少し甲高くなった。
怒りの炎が徐々に燃え始めてきた、と云ったところか。
最初にワタシと会った時は、丁寧語だったのに、今やその片鱗すら見せない。
完全に丁寧な自分を見失っているみたいだった。
しかし、その怒りはこちらにしてみたら、いい迷惑であり――。
ワタシは、彼の変貌にどこいく風と平気であった。
先程の奇襲攻撃みたいな”王様と家来”作戦を目の当たりにしたこともあり、
彼の凶暴性について、幸か不幸か少なからずの耐性が付いていたのだ。
「まあまあ、そんな大きな声を出さなくとも聞こえてますよ。
そんなに怒らずに、冷静になってみましょうよ」
……などとアラキを諭した。
もちろん、こうやってワタシが冷静さを表せば表す程、
彼が冷静になどいられない。
火に油を注ぐ結果になるのは、それこそ、火を見るより明らかと云ったところだ。
実際のところ、ワタシは、彼を怒らしたかった。
彼がヒートアップしてくれればくれる程、こちらの思惑通りに進 む。
「やいやいやい、オマエさんには、物事の筋道ってのは分からないのか?
いいか、オレたちはここに住んでるんだよ。
オマエさんのふたつの目が節穴じゃなければ分かると思うんだがな。
少なくとも、五人はいるんだよ、五人!
こいつらを外に出すってだけでも金が掛かるのは分かるだろ?
引っ越し代やら次のところの家賃だか敷金だか、で――」
アラキは先程の賃貸借契約書を片手でつまみ上げ、
もう片方で ぺしぺしと紙を叩きながら、続ける。
「大体、オレらはさ、これ!
こうやってちゃんとした契約書に基づいて、ここに居るんだよ!
これは、短賃(たんちん)だよ、短賃!
短賃は認められるの!
少なくとも、この期限まではこの先、二年間近くは居られるんだよ!」
アラキの云う”短賃”とは、”短期賃借権”の略で、
「競売申立てによる不動産差押え以前に結ばれた建物三年以内の賃貸借契約」
の意である。
短期賃借権は、その期間内について、
善良な賃借人を保護するために設けられていた権利であったが、
この権利はしばしば、競売不動産に巣くう違法占有者、
いわゆる”占有屋”が跋扈(ばっこ)する元凶ともなっていたため、
平成16年4月1日以降、廃止されてしまった。
この話の段階では、短期賃借権保護制度が現に存在しており、
アラキは水戸黄門の葵のご紋のように、その権利を振りかざしていた。
確かに契約書上では、彼の云うとおり、
短期賃借権が切れるまでまだ相当の時間があった。
だけれども――。
この場合、契約書云々の問題ではなく、
それ以前で彼は思い違いをしている部分があり……。
第二十七話「再度”王様と家来”作戦」
ワタシはアラキに云った。
云っていることはきつめだから、
云い方は大人しめで丁度釣り合いが取れると云うものだ。
「あのですね、アラキさん。
アラキさんの主張される短期賃借権なんですけど。
これは認められないですよ」
「認められないって何だ、その云い草は!
認められないって、 オマエに認められなくともお上が認めりゃそれでいいだろ!?」
アラキは逆上して云っている。
彼の怒りは途絶えることがない。
「いえ、あの、ワタシが認めないと云うよりも、
裁判所が云って るんですよ、裁判所が」
「裁判所ぉ!?」
「そうですよ。
裁判所が”ウジハラさんの占有権原は認められない”って。
物件明細書と云う裁判所の見解を示した資料にきちんと書いてありますよ。
だから、ウジハラさんの権利が認められないのだったら、
そこから転貸された人の権利も認められないって ことですよ。
もし、何だったら、裁判所に聞いて調べてみてはど うですか、
何せ、裁判所が云ってることですけどね」
ちなみに「物件明細書」は競売に参加する上で、
裁判所の意見が書かれた最も重要な資料であるが、
しかし、これは執行裁判所としての一応の見解が示されているだけに過ぎず、
既判力はない。
物件明細書に書かれている事項について否定する裁判を起こされたら、
その判決で内容が引っ繰り返されることもあり得ると云う ことだ。
だけれども、そこまで詳しく説明する必要もないので、
とにかくワタシは「裁判所が云っている」と云う部分のみを強調した。
「裁判所って云ったって、オレはウジハラのヤツから、
これは短賃物件だからって聞いてたぞ、おい!」
「おい!」と呼び掛けられても、どう答えていいのか、返事に困る。
この時点で、彼は債権回収を目論んで、占有屋をやっている割には、
知識が乏しいことが分かる。
そもそも、筋が宜しくない人間の言葉を鵜呑みにしたのが間違っているのだ。
「それは……ウジハラさんの云ってることは、違ってますね」
これは誰あろう、裁判所の意見なのだ。
最終的にジャッジする人間が、そう云っている。
それに異を唱えるだけの材料があるだろうか――。
アラキは、怒りの矛先をどこにぶつければいいのだ、
と云った顔でぶつぶつと何か云っていた。
すると、彼は、いきなり立ち上がると「おい!」と叫び、
この部屋と隣室を隔てている扉を蹴った。
「おい! オマエら、五人も揃って、茶を差し替えることも出来ねぇのか!
コーヒーが温くなってるぞ、コーヒーが!」
アラキの怒号に部屋の中から、
ひとりの茶髪が焦った表情で飛び出して来たのだが、
それでもアラキの怒りは収まるところを見せず、
思いっきりその茶髪頭をグーで殴っていた。
二、三発、茶髪男は殴られながらも、
いそいそとした仕草で冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、
アラキとワタシに差し出した。
そして、「失礼しまっすっ!」と云う言葉と共に、
また隣の部屋に逃げるようにして帰ってしまった。
ああ、まただ。
またもや炸裂する”王様と家来”作戦。
この男、最初は理論的に行こうと思ったのだけれども、
上手く行 かないので相手方に恐怖感を与え、
有利に交渉を運ぼうとする作戦に切り替えている。
それが彼のいつも通りのやり方と云う訳なのだろう。
「どいつもこいつも、オレの気にくわないことばっかりやりやが って!」
彼の云う「どいつもこいつも」の中には茶髪の手下ども以外に、
ワタシも含まれているのだろう。
だけれども、そのような手など、こちらは食らわない。
あくまで もこいつは、ワタシの心理的な動揺を誘おうとしているだけだ。
もちろん、目的はただひとつ、自分が有利な立場に立つために、だ。
大体にして、根本的なところで実害を食らわしてしまったら最後、
金は取れなくなる。
それだけ分かっていれば、後は何を怖 がる必要があるのだ――。
ワタシは、怖くない。
怖がってはいけない。
だけれども、たったひとつだけ勘弁してくれと思うところがあるとしたら――。
”ここは近いうちに確実にウチの商品になる物件なので、
建具を殴ったり蹴ったりしないで貰いたいんですけど……”
第二十八話「一束、寄越せ!」
アラキは、またどかっと椅子に座った。
あまりにも勢いよく座ったせいで、
椅子が「ぶわっ」とブーブークッションみたいな音を立てた。
彼の怒りとその間抜けな音の対比で、
ワタシは恐れ戦(おのの)く代わりに、
笑いの衝動に駆られたのは云うまでもなく――。
だけれども、流石にこのシチュエーションで笑ってしまうのもマズいだろう。
必死になって堪えた。
彼は不機嫌そうな顔をそのままワタシの方へ向け、云う。
「ああああ!!
もう、さあ、いい加減、飽きたんだよ!」
「何が飽きたのですか?」
「これだよ、今のこの状況!
この、どうでもいい話だよ。
それ以外に何があるってんだ、何が!?」
「いや、だから、これはどうでもいい話ではありませんよ」
「じゃかあぁしいっ!!」
テーブルにバンと手を叩き付けアラキはワタシを睨み付ける。
痺れる位の悪意に充ち満ちていた。
もはや、作戦で怒っていると云う風ではなく、地金が取れ、
丸見えになった性根がシュウシュウと湯気と臭気をたて、
素のままの憤りを噴出している。
彼は本性を現したのだ。
この男に渋さなどない。
電話でのファ ースト・インプレッションで感じた落ち着きなど、
見込み違いも甚だしかった。
だが、第一印象は外れても、ワタシの思い描いていたシナリオの道筋には、
オーダーメイドのスーツみたいに、すっぽり納まっている。
彼は、もうすでに落とし穴に落ちているのだ。
もっとも彼自身、落とし穴に落ちているとはまさか思っていないだ ろうが……。
「ガタガタとじゃかあぁしんじゃあ、ボケ!!
こんな腐れた部屋なんぞくれてやるから、
オマエらみたいな競売屋は黙って金寄越せばいいんじゃあっ!」
えらい気合いの入った関西弁である。
いや、関西弁風か。
彼は、ドスを効果的にするため、わざと関西方面の言葉遣いをしているのだろう。
ピンと直感した。
ワタシは対照的に落ち着いた風で、云う。
「ガタガタ抜かしている訳ではありませんが、
でも、その金って何ですかね?」
「金は金だろうがっ!!
出て行ってやるのにも金が掛かるってことは、
さっきも云っただろう?」
「ただ、先程仰ってた短期賃借権については、
これは認められないと、ワタシはお話差し上げたと思いますが……」
「短賃だが、文鎮だか、とんちんかんちんだかシラねえが、
もうそんなの関係ないっ!
いいから、出すモン出さなければ、 出ていかねぇーぞっ!!」
暴走列車の如きアラキの怒濤(どとう)の言葉は、
誰にも止めることが出来ない。
しかし、ワタシはそれを止めようとは思わない。
いや、もっと暴走すればよいとまで思っている。
さすれば――。
「いいから、オマエんところは出すのか、出さないのか?」
「金ですか?
ちなみに一体幾らのことを仰ってるんです?」
「オマエさあ、オレに恥をかかせない程度の金に決まってるだろうが!
最低、一束だよ、一束!」
「一束?」
云いたい金額は分かるのだが、しらばっくれて聞いてみる。
アラキは、苛々と、それでもある意味、律儀に答えた。
「一束って云えば、百万に決まっているだろうが、百万だよ、 百万円!」
怒れる獅子は、どこまで遠くまで吼えるか。
吼えて吼えて吼えまくって、具体的な金銭要求を行った。
吼える彼は、更に痺れるような悪寒を周囲に振りまいている。
それでもワタシは落ち着いて、噛んで含めるように言った。
「まとめますと、アラキさん側、
日本エクセレントカンパニーさん側としては、
この××マンション307号室から退去する代わりに、
百万円寄越せと云うことですね」
「そうだ、簡単だろ?」
「物事は簡単にした方がいいだよ、何でも」
と続けるアラキにワタシは面と向かって云い放った。
「もし、ワタシがそれを拒んだら、どうされます?」
第二十九話「暴走列車は、墜ちていく」
アラキは一瞬の間の後、その沈黙分まで消化するかのように怒鳴り散らした。
「どうされるも何もねぇだろう?
いいか、ここにはもう五人いるんだ。
あと五人でも十人でも何人でもぶち込んでやらあっ!」
「ワタシどもは、今回、話がまとまらなかったら、法的措置に出ますけど?」
「法的措置ぃ?
どうせ、何だ。
あれだろ、強制執行だとかだ ろ?
いいよ、やってみろよ!
やってみればいいだろう!?
こっちはな、知ってるんだよ。
対処方法なんて、そんなもん、とっくにウジハラに聞いて知ってるんだよ!」
先程、短期賃借権の件で適当な情報を流されたにも関わらず、
この期に及んでもウジハラの名を出している。
「それにな、いいか。
ここに住んでいるのは、若い子ばっかだから。
部屋の中で何するか分からねぇよ。
スプレーでアートするヤツもいるし、野球が大好きなヤツもいるしな!」
これを訳せば、部屋をメタメタのギタギタにする。
内装費どれ位かかるか、考えてみろ?
そんなことされたら、アンタの転売の目論みも事業としてやばくなるだろ?
だったら、今のこのままの状況で渡された方が得だろ?
と云ったところだ。
返す返す腐った男だ。
やることが小さ過ぎる。
悪は悪でも踏めば潰すような、小悪党止まりめ、が。
「それは……脅しですか?
この××マンションのこの部屋3 07号室を引渡すのに金を寄越せ、
さもなくば、この部屋を全部、ぶちこわすぞ、と?」
流石に「脅し」という言葉が逆に利いたのか、
アラキは、これまでの暴走ぶりのペースを落とし、ワタシに弁明する。
「いや、それはないけど、さ。
脅してなんかいねぇよ。
ただ、 本当のこと、云っただけじゃねぇかよ」
「でも、そちらの満足する金銭を渡さなければ、退去しないんでしょう?
それに、その際は、家の中のものを一切合切壊して、
使い物に出来なくするって云うんでしょう?」
「……」
「そう云うのって、立派な脅しなんじゃないでしょうかね。
こ の会話を誰が聞いても、ね」
暴走機関車は急停車したようだ。
だが、それは一過性のものであり、いきなり走り出す時は、猛進する。
「ああああ、うるせぇ!!
さっきからゴチャゴチャ抜かすな っ!
オレが脅してねぇって云えば、脅してねぇことになるん だよ!
今からあの五人呼んで、聞いてみるか?
皆、オレの 云うことに賛同するんだよ。
だから、オマエが云ってるみたいに、皆が皆、脅しだとは云わねぇんだよっ!!」
アラキは、茶髪五人衆を呼びつけ、再度自分の後ろに勢揃いさ せた。
ひとりひとりに「オレの云っていることとこいつ――
もちろん、ワタシのことだ――の云っていること、どっちが正 しい?」
なんて、ろくに話の前後関係も脈絡も分かっていない連中に訊ねた。
茶髪どもは、「アラキさんが正しいっす」などと口々にする。
髪の毛の色も同じならば、その答えも同じく型通りのものだった。
彼らのボスであるアラキは、
その答えをもとにして「これで どうだ?」と云わんばかりだ。
ワタシはやれやれと首を横に振った。
こちらがアメリカ人だったら、手振りも加えて、おまけに首もすくめて、
"OH!NO!"とか云っているシーンだぞ、確実に。
全くもって、子供の云い分に等しい。
自分の息の掛かる身内呼んできて、
多数決は民主主義だとばかりに自分の意見をごり押ししようとするなんて、
どこぞの独裁者だ?
それとも、この部屋の中で、独立国でも作るのか?
どんな国だ?
バカ民主 主義人民共和国か?
将軍様、マンセー!
ここまでアラキが小さな世界とは云え、
独裁者然としていると は想像しなかった。
が、しかしそれはそれでこちらにとっては、 好都合である。
彼は、ワタシの予想通りの言動を取り――。
そして、墜ちていくのだ……。
第三十話「こちとら、伊達に交渉やってるんじゃない!」
もう、ここで話すことは何もない。
ワタシは、睨み付けたままの彼を差し置き、「さて」とばかりに立ち上がった。
「それではここでの話し合いは結局、
お互い何も身にならなかったと云うことですね」
ワタシを見上げるように、それでも睨んだままのアラキは「待て待て」と云う。
「待てや、待てや。
オマエ、何立ってるんじゃ?
話すこと終わってはないだろうが!」
「終わってない、ですか?」
「全然、全く、何も終わってないだろうが!
どうするんだ、この部屋、もういらないのか?」
「いらなくはないですけど。
……でも、話にならないじゃないですか。
大体にして、ですよ。
最初に賃貸だとか云ってみたりとか。
それで、最終的には金だ。
一束だ。
百万だって。
払わなかったら、部屋ぶち壊すぞ、とか、そんなのあり得ないでしょうに」
「そこまで極端には云ってないだろうが」
「そこまで極端に云ってるんですよっ!」
ワタシはアラキを直視する。
腹が立っていた。
今まで様々な感情を抑え抑えいたのだが、それにも限度と云うものがある。
ソファに座っている段階では心に楔(くさび)を打ち込み、
すべてを押さえ付けていたのだが、立ち上がった途端に、
その封印が解けてしまったかのように――。
暴走”アラキ”列車は勢いを止め、代わりに、
”追い出し屋G”列車が暴走気味になって来た。
「さっきから黙って聞いてれば、金金金金――金のことばっかり。
いや、そちらも商売でやってるんでしょうから、それはおいておいても。
もっと上手いやり方があるでしょうに。
交渉の仕方があるでしょうに。
でも、アナタはいつまで経っても、金目当てであることをありありに、
最終的には恐怖で脅迫する云う手段まで使って、
ワタシを押さえ込もうとした。
そんなのあり得ないですよ。
ええ、あり得ない!」
「脅迫なんて、してない」
相手は、少し怯んだようだった。
構わず、話を続ける、追い出し屋G。
「アナタのどこが脅迫してないんですか?
いいですか。
これは立派な脅迫ですよ、脅迫。
今日日、そこまでやる占有屋なんて見たことないですよ、ワタシは!
いや、そこまでやる占有屋がいないってのは、
他のヤツらが皆、狡 猾(こうかつ)になっているってことで、
アナタが勇気があるとかそう云うことを云ってる訳じゃないですよ。
アナタは、直線過ぎなんですよ!」
アラキは、ワタシがいきなりまくし立てるように喋ったので、
戸惑いを覚えているようだった。
思うに彼はワタシがあまり喋らないタ イプの人間であると、
勝手に思っていたのだろう。
間違いだよ、大間違いだ。
「それにアナタのその口調!
相手に対してオマエとは何ですか、オマエとは!
相手側を示すのに、オマエと云うのは、
どう云った了見をされてるんですか?
その時点で相手を無駄に見下しているってことではないですか。
そんな人間と普通に交渉することなんて出来ます?
それに、何ですか。
いきなり暴力シーンを何度も何度も見せつけて。
そんなもの見て、ワタシが驚くと思ったんですか?
驚いて、驚愕して、驚異を感じて、驚きに驚きを重ねて、
それで、交渉が自分ペースになると思ったのですか?
ワタシもねえ、体張って仕事してるんですよ。
そんなの見せつけられたって、怖くも何ともない!
誰しもがビビってヘイコラすると思ったら、間違いですよ。
大間違いってものです、ええ!」
――こちとら、伊達に交渉やってるんじゃない!
第三十一話「最後の交渉のはじまり」
アラキに対し、大見得を切ったこと――。
正直なところ、これはワタシの想定したシナリオにはなかった。
勢いに任せて、思わず口走ったことである。
だが、たまにはそれもいい。
大筋さえ外さなければ、多少のアドリブがあったところで、
すぐ修正が利くのだから……。
交渉人としての一喝は、割と効果があったようだ。
アラキは、ワタシを見上げ、餌を待つ鯉のように、
あんぐりと口を 開けている。
口が開きっ放しで、間の抜けた彼の顔へと吐き捨てるように、
ワタシは通告した。
「これ以上やっても平行線のようですし。
ワタシは今日は、帰ります」
ワタシの声で、催眠状態から解き放たれたかのようだった。
彼は口と同じくして、黒い光で爛々とした細い目を大きく見開く。
「おい、オマエ、な、何云ってるんだ!
まだ話し合いは終わっち ゃいねえぞ!
てめえ、尻尾巻いて逃げるってのかっ!?」
再度、テーブルを両手で叩いた。
彼は彼でこの話がここで終わったら、
金の算段がすべてパーになると思っているのだろう。
だから何とかしてでも、交渉役であるワタシを引き留めようとする。
だが正攻法で普通に云ったところで、ワタシを止めることが出来ない。
単細胞なアラキのことだ。
相も変わらず、暴力性を露出させることにより、
ワタシを恐怖でもって支配し、驚き止まらせようとしているのだろう。
まったく救いがたい男である。
それにこの男はワタシを足止めしようとしてこのような行為に及ぶことで、
ふたつの間違いを犯していると云うことに気が付いていない。
まず第一に、ワタシに恐怖感を与えようたって、無駄だと云う点である。
大体、そんなものはただのブラフであり、
相手の目標は金が取れればいいと云うことなのだから。
しかも、金と云っても、六本木辺りのキャバクラに行けば、
一晩あたりで飛んでしまう程度の金である。
一生遊んで暮らせる程の大金ではない。
その程度の金が目当てなのにも関わらず、
ワタシを傷つけ、刑務所に直行する勢いのあるバカではないだろう。
ワタシはそう最初から踏んでいるのだから、
脅そうがどうしようが、効き目はないに等しい。
無駄なことに血眼になっていること。
これがひとつの間違い。
そして、第二に、彼のやっていること自体が、
威圧による軟禁行為として限りなく黒であると云うことだ。
ワタシはそんな彼の行動を横目にし、
「やはり、これでは交渉を続けることが出来ませんよ」
とワタシは軽く一礼して喚き立てるアラキのガラ声を背にしながら、
玄関へと向かった。
もし何かあるとしたら、茶髪五人衆が損得勘定を考慮せず、
ワタシに危害を加えるようなアクションを取ることだな、
と思ったワタシはいつでもダッシュで逃走出来るように身構えながら、
彼らの脇を通った。
幸いなことに彼らはひたすらワタシを睨み付けているだけにとどまり、
指一本ワタシに触れては来なかった。
玄関の三和土(たたき)で、靴を履いたワタシは――。
何やらダイニングでガアガアと喚き騒いでいる、
アラキに向かって声をかける。
そうだ――。
「やっぱり、もうひとつだけお伺いしたいのですが……」
そうなのだ。
ここからが最後の交渉のはじまりなのだ。
ワタシからしてみても、
この今の状況のまま話し合いが終わってしまっては、
これまでの時間が無駄だと云うことになる。
でも、ワタシは今日この交渉一回で、
占有者退去について、すべてを終わらせようと計画を練っていた。
債権回収屋になど、一円たりとも支払わないで追い出しを行う、
そんな大作戦の計画を立案して、臨んでいるのだ。
これまでは筋書き通りに事が進んでいる。
アラキも気が付いていないだろうが、
彼は知らず知らずの内に”主演男優賞”ばりの名演技をしている。
ワタシは、 差詰め”助演男優賞”か。
アラキはワタシの問い掛けに、
「ああん? 何だ?」と玄関へと向かってきた。
今までの人生の中でも、最大レベルに不機嫌そうな彼の顔は、
今にも鼻血が出そうな位真っ赤になっていた。
「……どうですか、今までの話を踏まえた上で、
無条件にて引き渡しをする。
そんなお心積もりはありませんか? 」
アラキは即答した。
「ある訳ねえだろっ!!
話し合いが終わっちゃいねえ。
帰るなって云ってるのにも関わらず、
席を立ってんのは、オマエだろ?」
暴発するアラキ。
彼は唾を飛ばし、ワタシを罵倒した。
「それでは無条件ではなく、一束だと? 百万だと?」
「いいや、もう、一束じゃねえな!
迷惑賃込みで、二束、いや、 三束だ!!」
彼の立ち退き料相場はぐんぐんと伸び、ストップ高を飛び越えて、
天井知らずの勢い、ここに極まれり。
百万が、怒らせて三百万か。
とんだインフレーションである。
一杯のコーヒーのために、トラ ンク一杯の金が必要だった、
第一次大戦敗戦後のドイツも真っ青なくらいの、超インフレだ。
ついでにアラキの怒りのインフレーションも継続しているようだ。
ワタシは赤を帯びた彼に対比する位に白い冷めた顔で、云った。
「そうですか。
それは残念です。
じゃあ、話し合いは完全に決裂ですね」
ワタシは、ドアノブに手を掛け、扉を開けた。
外に出ようとした。
――が、そのままドアを開けることなく、体をくるりと反転させると、
彼を見据え、澄ました顔で一言。
「あ、そうそう、アラキさん。もうひとつだけ、いいですか?」
第三十二話「大勝負の行方」
最後の大勝負だ。
必ず、アラキを撃沈させる――。
一旦、帰るように見せかけて、その実、
相手を追い詰めるが如く、振り返る。
そして相手に圧迫感と不快感をこれでもかと与える。
気分はもう刑事コロンボである。
ワタシ中で、刑事コロンボのオープニングテーマが脳内再生された。
心なしか少し軽やか面持ちになった。
「ひとつですね。
云い忘れていたことがありましてね、アラキさん」
ついでに、「ウチのカミサンはね――」とか云いたくなったが、
何の脈絡も無さ過ぎるし、第一、コロンボ気分なのはワタシだけだろう。
その気持ちはぐっと抑えた。
「何だよ? 云い忘れてたことってよ?
あれか? やっぱり金、払うってか?」
この男、割とポジティブ人間である。
世の中を都合良く解釈することが出来る。
それは生きていく上では必要な能力であろうが、
時を選ばず、こんな状況でそんなに前向きな発想を見せないで貰いたい。
「アラキさんに最後に見せようと思ったものがありまして、ね」
ワタシは、自分のスーツのポケットから小さな機械を取り出した。
長 細いフォルムの上部に、小さな赤い電球が光っている。
「これは、何だ?」
不明なものを見ている彼の顔に、サッと不安らしきものも過ぎった。
得体の知れぬモノへの本質的な恐怖の表れと云ったところだ。
「これは……ICレコーダーですよ。
テープレコーダーよりかは、全然 嵩張(かさば)らないですから、
分からなかったかも知れませんが」
「……」
「このICレコーダーで、録らせてもらいました。
ここに入ってから今に至るまでのすべての発言を――」
「……!」
彼の顔が変わった。
驚きの顔へと変化した。
ワタシは、この男がここまで驚異に溢れた表情をするとは思わなかった。
最早、立ち止まる必要はない。
手にしていたICレコーダーをポケットに戻したワタシは、先へと進む。
「すべて、ですよ。
アナタがワタシを脅迫して、恐喝する現場の生の声が、
すべて、この中に入っています。
きちんと、この日時も場所も交渉相手である、
アナタのフルネームも……。
もっとも仮に偽名であ ったとしても、
少なくとも、アナタの声は入っている。
声紋まで欺( あざむ)くことは出来ないでしょう?」
「それは……。
オレは別に脅迫なんかしていない!」
「いえ、それは違いますよ。
実際、アナタはワタシを目の前にして、
威圧的暴力的な対応を示していました。
自分の手下の人間を殴ってみせたり、
扉を蹴ってみたり、机を叩いてみたり……。
しかも、あからさまに金を要求していますよね。
最初は一束で、最後は三束ですか。
三百万。
すべてはワタシから、自分にとって都合の良いカードを引き出すための
云わば脅迫的な行為ではありませんか」
「オレが脅迫じゃねえって云ってるんだから、脅迫じゃねえんだっ!」
アラキは玄関脇の下駄箱の扉を殴った。
ミシっと云う音がした。
ああ、この人は……。
材質は薄いベニヤ板なんだから、勘弁してちょうだいよ。
「そういった行動自体、一般的に脅迫的行為と云うんですよ。
それに最後の辺り、 話し合いが終わってないんだから、
帰さないとか云ってましたよね。
これまた暴力的に。
それはそれで、監禁ですよ、監禁罪。
ついでに、今さっきの下駄箱の扉も壊れましたよね。
器物損壊もプラス……」
「器物損壊はねぇだろ! まだオマエのもんじゃないんだから!」
「まあ、それは別にしておいても。
少なくとも、脅迫、恐喝、監禁、この辺りはいけそうですね。
あと、ついでに付け加えておきますか。
債権回収目的で占有を行っていることも。
これってば、競売妨害ですよね」
「……」
「ワタシ、これから警察に行ってこようと思っているのですが」
「……」
これで、雌雄は決した。
勝者はもちろん……。
最終話「最大の誤算」
――赤から黒へ、そして青へと変化し、
終いには白を震わすアラキの顔色。
目まぐるしく変わる彼の表情は、さすがに美しいとは思わないが、
下手な超魔術よりも彩り豊かな、それはそれはファンタジックであった。
リアルならではの人間の業と云うものを併せ持つ、
その俗悪さは、ワタシにとって、
見世物小屋の出し物よりも興味深かった。
”精も根も尽き果てる”との言葉を具現化するかのように、
がっく りと肩を落としたアラキであった。
ワタシが「……アラキさん、ど うします?」と訊ねると
「いや、そんなことは……」とボソリと呟く。
ワタシが再度「そんなことは、何ですか?」と訊くと、
彼はうな垂れながら、
「……いや、そんなことは無しにしてくれ」と答えるのだった。
ワタシは思った。
何だろう、この弱さは……。
この男はこれまでにシチュエーションは違えど、
同じような手を使い、金を手にして来たのだろう。
男は攻撃的な部分を全面的に押し出し、
勢いよく畳みかけるようにして、相手に襲いかかる。
襲いかけられた側の人間はと云えば、だ。
押しが強く顔面が怖い彼や彼の身内に心の奥底から恐怖を感じる。
恐怖に支配される。
故に相手の要望に多かれ少なかれ乗ってしまう、
最悪の結果に陥る……。
その手の勝利の方程式みたいなものをアラキは会得していた。
そう云ったスキームに相手が乗っかってさえくれれば、
相手は自分に対し、呆気なく金 を提供する――。
これこそ、彼にとっての黄金則だ。
そう、今の今までそうだったのだ。
彼は金を搾り取ってきた。
もちろん、相手は誰でもと云うことではない。
彼は彼なりに相手を選別しているのだ。
彼が相手にしてきたのは、
恐怖を感じさせることによって、
一方的な交渉が出来ると踏んだ人々――。
そうだ、極々普通に生きている大部分の人達だけだ。
彼は本職の強面な人間には襲いかかることなどしない。
仮にそんな相手が近付いて来ても、通り過ぎるまで草の陰にでも隠れ、
息を潜めてジッと待つだけである。
相手を選んだ上で卑劣としか云えない恐喝行為をする。
アラキと云う男は、強者を気取る弱い人間なのである。
ワタシは彼の本質を見抜いていた。
だから彼の云うことすべてについて、はっきりと相対することが出来た。
何を云われても表面上、臆することはなかった。
ワタシはもちろん、普通に生きている一般の人間である。
強面の人間ではない。
だから、いつもどおり、最後には金を出してくると確信していた。
アラキは、勝利の方程式を用い、
ワタシの会社から金を引き出せると思い込んでいた。
それが彼の最大の誤算であった。
マークシートで塗り潰す部分を間違えるケアレスミスではなく、
氏名欄に自分の名前を書かなかった程の大きなミスである。
彼は知らなかったのだ。
ワタシが追い出し屋だと云うことを――。
ただの素人だ。
ちょっと脅せば金を出して尻尾を巻いてすぐに逃げ帰る。
そう思っていたからこそ、ノーガードだったからこそ、
最後のカウ ンターは効くに効いた。
強気を装う男は、常人の放つ一撃のパンチでリングに沈んだのである。
アラキの顔色は依然として悪い。
奥の方で呆然と突っ立ち、
この光景をうつろな視線で眺めていた茶髪五人衆の顔には、
程度の違いこそあれ、
一様に彼らの主人に対する蔑視の色が見え隠れしていた。
遅かれ早かれ、彼らは全員、このアラキと云う男を見限る。
それは間違いないだろう。
結局、彼らもまた、損得勘定で考えている
見せかけだけの忠誠心など、ひびが入れば粉々に砕けるだけだ。
ワタシは、ゆっくりと、アラキに云う。
「なしにするのは構いませんが……。
その代わり、壊した下駄箱については弁償して下さいね」
こうしてアラキと合意書を交わすことに成功した。
書面はワタシが普段から使っている合意書を使用した。
様々な条項が並んでいるが、内容を掻い摘んで云えば――。
日本エクセレントカンパニーは、
このマンションから一週間以内に立ち退くこと。
それに伴う引っ越し代等の金銭要求をしないこと。
この二点が重要なポイン トである。
その代わりに、脅迫や恐喝、監禁、競売妨害だなんて、
ワアワア騒がないでくれ、と云うのがあちらからの希望であった。
マンションの引き渡しさえ上手くまとまれば、事を荒立てる必要はない。
ワタシはアラキの申し出を呑んだ。
合意書を書いて貰っている時、
ひとつ、謎が残っていることを思い出した。
一時期、ワタシが頭を悩ませた、例のラベルシールの件だ。
ワタシは、アラキに訊ねた。
三ヶ月前に貼ってあった日本エク セレントカンパニーのラベルシールが、
何故、一ヶ月前に剥がされていたのか、と。
彼の答えは明確であった。
競売物件で下見に来たヤツに、ウチの会社の名前を知られて、
誰も彼もに会社まで占有について訊かれるのは、面倒臭い。
こちらが相手にするのは、あくまでも買受人であって、
落札出来るかど うかも分からない、買受希望者ではない。
第一、そんなヤツらに親切に答えてやっても、
金にならないじゃないか――と。
合意書に捺印する時にはもう、アラキの表情に赤みが戻っていた。
何が何でも、ハイバラから回収してやると、息巻いている。
彼の怒りの矛先は、買受人から所有者のハイバラへと移っていた。
その後のアラキとハイバラの顛末は知る由もない――。
ワタシは意気揚々とばかりに、アラキと別れた。
エレベーターに乗り込むと、
ワタシは胸ポケットからもう一台のIC レコーダーを取り出した。
二台のICレコーダーを持っていたのだ。
念には念を入れていた。
万が一、一台が敵の手の内に奪われたとしても、
予備の一台でカバーと云う訳だ。
一階に着き、エレベーターの扉が開くと、
管理人のオバサンがエントランスをモップでこすっている姿と出会った。
もう磨き尽くしただろうに……。
オバサンは、ワタシを見て「ああ、オバサン、心配してたのよぉ。
何か、『はるちゃん』の支配人みたいな男と一緒に行っちゃったでしょう?」
と妙に舌っ足らずな声を上げた。
ワタシは「大丈夫ですよ」と彼女に声を掛けた。
でも――とワタシは、思った。
――『はるちゃん』の支配人って、一体、誰なんだ?
途端に頭の中が未だ見ぬ『はるちゃん』の支配人でいっぱいになる。
新たなる謎の到来だ。
春麗らかな日だと云うのに、
ましてや立ち退きが終わったと云うのに。
一仕事終えた男の心のなかは、
一転して二日酔いの頭で目覚めた朝のような、
嫌な空気に侵食された……。
……完。
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